尚山堂
日本紙業発展の歴史の中で「日本紙器製造所」?「日本紙業株式会社」とは別に、もう一つの流れがある。それは木製抜型の創始に始まるルート、浅野三兄弟(浅野鉢太郎・水野倶吉・浅野鉄二)が起こした「尚山堂」と、そこから「東京紙器」-「凸版印刷」へ続くソフト重視の流れである。
幕末にドイツ人医師シーボルトから西洋医学を学び、わが国近代医学の父となった伊藤玄朴の孫に伊藤栄という人がいた。伊藤栄は明治に入り伊藤胡蝶園という化粧品製造会社の社長となった。白粉の成分である鉛白か鉛毒をおこすと騒がれたころ、無鉛を旗じるしに売り出された伊藤胡蝶園の御薗化粧料は一躍有名になり、たちまち化粧品界を支配した。
その伊藤胡蝶園へ化粧品用の紙箱を一手に納めていたのが四谷の「尚山堂」である。
浅野鉢太郎(1864-1910)・水野倶吉(1874-1923)・浅野鐵二(1878-1941)の三兄弟、水野倶吉は祖母の家を継いだので水野姓を名のっているが、この三兄弟の母が「尚山堂」のそもそもの産みの親、鎮(1841-1923)である。鎮は38歳で夫と死別、髪結いなどをしながら一家を支え、明治14年(1881)、子供たちを抱え、上京、四谷伊賀町に住まい、子供たちに木版や銅板の彫刻と印刷という手に職をつけさせ、「尚山堂」を起こさせた。
晩年は長唄、三味線を楽しみながら、大正12年83歳の長寿を全うして逝った。浅野家はその後、四代にわたって多くの家系を生み、現存者だけでも約150人、3年に1回、関係者が明治記念館に集まり、「孝行会」という集会を催し、親睦を図るほどの大一族である。
その源流として崇められているのが鎮である。三兄弟の長兄鉢太郎は尾張で木版彫刻家竹中章造の門弟となり、名工肌の天分を発揮、18歳のとき母に従って上京、尾州藩旧士族大沢氏の江川堂木版店の職人となり、30歳で母鎮とともに明治26年(1893)に四谷五郎兵衛町で独立、「尚山堂」を名乗った。
鉢太郎は努力家で、欧文の勉強から始め、和風木版から背景紋様の複雑な西洋木版へ、そして刀刻銅板へ移り、欧文名刺印刷をみずから創始した。宮内庁ほか諸官庁に認められ、大正天皇が皇太子時代の名刺や、大公使の名刺を頼まれるようになり、“名人鉢さん”の名をほしいままにしたが、明治43年に49歳で亡くなった。(『尚山堂概史』『浅野家史』より)。浅野鉢太郎が名工肌なら、次男水野倶吉は発明家・開発家で、事業肌であった。倶吉は12才で遠縁にあたる横内桂山の門弟となり、19歳まで銅板彫刻を学び、その後、現在の後楽園ドームのあたりにあった砲兵工廠に入った。明治27~8年の日清戦争のころである。彼は天分の開発精神を発揮し、銃の番号をいちいち手彫りではなく、自動刻印機で打ち込む方法を提案し採用された。砲兵工廠を退職後、明治32年(1899)、倶吉は砲兵工廠で知り合った小西六右衛門(小西六写真工業創始者)と兄鉢太郎の応援を得、四谷坂町で母とともに写真台紙の製造を始めた。事業家の倶吉は次第に仕事を伸ばし、明治35年には四谷区大番町(現新宿区大京町)に約200坪の敷地に工場を建てて移転した。このとき「兄弟三人が力を合わせてやろう」と事業を一本化、「合資会社尚山堂」と命名した。明治40年(1907)ごろ、尚山堂は米国から木工用糸鋸ミシン・刃材とその曲げ機・切断機など抜型製作用材と機器一式を約1万円で輸入、近代抜型製作に先鞭をつけた。
アイディアマンの倶吉は、次々に新機軸を生み出し、文字が浮き出る浮き上げ凹版印刷・エアブラシによる着色応用印刷・シール印刷・金箔型押し・日めくりカレンダー・箱もの・曲げものなどを世に送り出した。中でも特に有名なエピソードは、大正3年(1914)森永ミルクキャラメルの紙箱を倶吉が考案、上野公園で催されていた大正博覧会で、この紙製ポケット式キャラメルを20個入り10銭という缶入りの半分の値段で売り出したところ、飛ぶように売れ、森永のヒット商品となったことである。
またオフセット印刷機の輸入が杜絶したとき、ドイツのカタログを見ながらオフセット機国産第一号を開発したのも倶吉である。
大正6年(1917)、「尚山堂」は発展的に改称し、「東京紙器株式会社」となり、末弟の鐵二は長兄と次兄を援けてもっぱら管理面に腕をふるい、尚山堂の育成に貢献、尚山堂を母体に「東京紙器」が設立されると、常務取締役に就任した。鐵二は大正15年(1926)に「東京紙器」が「凸版印刷」に吸収合併されると、ひき続き凸版の常務として残り、昭和5年取締役、12年監査役となり、16年に現役のまま病歿した。(『尚山堂概史』『凸版印刷史』より)。最終的に合併することになる「尚山堂」?「凸版印刷」への流れは、ある日突然に起こったことではない。この二つには、もともと深いつながりがあった。凸版印刷の井上源之丞の義弟井口誠一は明治43年に尚山堂に入社、長い間倶吉の片腕として働いていた。そのことから、胡蝶園が「尚山堂」に化粧品容器を発注した際、すでに紙器部門を尚山堂、印刷部門は凸版印刷と仕事を分かち合っていた。森永製菓のキャラメルの外箱のときも、ポケット式外箱を考案し提唱したのは倶吉だが、その外箱(タトウ)の印刷は凸版、中箱(中舟)は尚山堂が担当した。
*【註】東京紙器株式会社
当社「東京紙器株式会社」と文中の同名の会社は別会社ですが、当社の設立には、文中にある浅野鐵二氏の長男浅野秀司氏のご協力とご支援をいただき設立した経緯があり、社名を引き継いだ形になっています。