神様が教えた紙作り 越前和紙の始まり物語
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こんにちは、東京紙器です。
皆さんは、福井県にある大瀧神社をご存知でしょうか?
大瀧神社は、越前市大滝町にあり、延喜式神名帳に所載のある歴史深い神社です。江戸末期に建てられた美しい本拝殿が見られることで知られています。その摂社に「岡太(おかもと)神社」という神社があり、ここではなんと、「紙の神様」が祀られています。
「紙の神様」。紙に携わる弊社にとって、非常に気になる存在です。そこで今回は、越前の歴史を中心に製紙業の歴史と大瀧・岡太神社との関係、そして紙の神様について調査してみることにしました。
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製紙業の歴史
日本の製紙業は、一般的に西暦610年に高句麗の僧、曇徴(どんちょう)によって伝えられたとされています。曇徴がもたらした製紙法は、製紙専門機関である「紙屋院(かみやいん)」によって整備され、全国へと広がりました。
越前でも同時期に製紙業が発展したと考えられますが、一方で、それより更に100年ほど前の、継体天皇の時代に伝わったとする文献もあります。
古代、越前では製鉄業が盛んで、非常に先進的な地域でした。その技術が、朝鮮半島をはじめ大陸からの帰化人によってもたらされたとすると、製紙技術も他所に先駆けて伝来・発展していたとしても不思議ではありません。
越前の製紙業の発展
このような背景から、越前では他所より長期に渡る技術の蓄積があったようで、14世紀中頃の南北朝時代以降、その高い技術力と品質が中央で評価されるようになると、紙座が形成され越前全域は夫役免除などの特権を認められるようになります。
三田村家
越前和紙とは、主に越前五箇郷で生産された和紙を指します。越前五箇とは、現在の越前市今立地区にある大滝町、岩本町、不老町、定友町、新在家町のある地域です。当時、一帯の製紙業の中心的役割を担ったのが三田村家でした。
非常に高い製紙技術を持っていた三田村家は、周辺を支配した歴々の大名から保護を受け、奉書紙をはじめとする各種和紙製造の独占権を認められ、大いに繁栄しました。江戸時代に入ると、幕府の御用紙屋として認められ、三田村家の収める奉書紙が幕府の公的料紙として使用されました。
越前和紙と紙幣
中世から近世にかけて発展を続けた越前和紙は、日本の近代化にも大きな影響を与えました。近代的な貨幣制度が始まった明治時代初期、紙幣生産のほとんどを西欧の技術に依存していました。しかし、これを経済安全保障の観点から問題視したのが、当時の紙幣寮長官であった得能良介です。
得能は、紙幣用紙の国産化を目指し、東京の王子に抄紙局の工場を建設。そこで招聘されたのが、越前五箇出身の6人の職人たちでした。彼らは大変な苦労の末、和紙独特の風合いを持ち、印刷適性に優れた紙幣用紙の開発に成功。また、現在でも受け継がれている「すかし」技術も確立されました。
大瀧神社と岡太神社
大瀧神社の歴史は古く、推古天皇の時代593年に大伴連大瀧(おおとものむらじおおたき)の勧請(神仏の降臨を願うこと)がその始まりとされます。奈良時代に入ると、平泉寺や白山信仰を開いたことで有名な泰澄(たいちょう)によって、地主神として岡太川に祀られていた紙祖神岡太神社を御前立として、大徳山大瀧寺が建立されます。
その後、相次ぐ戦乱の中で寺勢は大きく衰退しましたが、江戸時代には越前松平家の保護を受け、再興を果たしました。明治時代に入ると、神仏分離政策に伴い、大瀧神社と改称され、また岡太神社が摂社となり水分神(みくまりのかみ)が祀られるようになりました。こうした背景から、現在外宮にある社殿は、大瀧神社と岡太神社の両社の建物となっています。
美しい神社建築
大瀧神社の社殿は江戸時代末期(1843年)に建てられた非常に美しいもので、国の重要文化財に指定されています。
本殿と拝殿が、複雑な屋根構成によって連結された複合社殿で、江戸時代末期を代表する名建築として近年注目を浴びています。手掛けたのは永平寺大工の大久保勘左衛門という人物で、永平寺の勅使門を手掛けたことでも知られています。
屋根の造りは、本殿の流造(ながれづくり)の屋根の上に軒唐破風の入母屋造屋根を乗せ、軒唐破風付向拝のある入母屋造屋根の拝殿に接続された、独特な造りで非常に見応えがあります。
大瀧神社の歴史と製紙との関係
大瀧神社の創始者である大伴(おおとも)氏は、「製紙業の歴史」で触れた継体天皇とも深く関わりがあります。大伴氏は、越前国を治めていた継体天皇を皇嗣として推戴した有力な氏族の一つです。
継体天皇の即位は、大伴金村の働きかけによって実現しました。金村は、朝鮮半島南部の任那(みまな)に関わりを持ち、百済との交渉役でもありました。このため、彼は越前と朝鮮半島の双方で技術や文化をつなぐ役割を果たしていたと考えられます。この交流が、越前に製紙技術をもたらすきっかけになった可能性も十分にあります。
さらに、大瀧寺の建立により、護符や写経用紙の需要が生まれ、製紙業の発展を後押ししました。このように、大瀧神社と製紙の関係は、歴史的にも技術的にも深い結び付きを持っていたのです。
紙の神様
岡太(おかもと)神社に祀られている川上御前(かわかみごぜん)は、全国でも珍しい紙の神様として古くから信仰されています。伝説によると、約1500年前、岡太川の上流に美しい女性が現れ、村人たちに「この清らかな水を使えば紙を漉いて生計を立てられる」と語り、紙漉きの技術を伝えました。彼女は「我はこの川上に鎮坐する弥都波能売命(みずはのめのかみ)」と名乗り姿を消したため、村人たちは彼女を「川上御前」として祀り、紙の神として崇敬するようになりました。
弥都波能売命は水の神として知られ、製紙業に欠かせない清らかな水の象徴でもあります。製紙業が発展する中で、女神は紙漉き職人たちの守護神となりました。明治時代には、大蔵省紙幣寮に分祀され、紙幣用紙の製造を支えた職人たちの技術の守護者ともされました。
現在も岡太神社では毎年春と秋に「神と紙の祭り」と呼ばれる「例祭」が行われ、川上御前に感謝を捧げるとともに、紙漉きの繁栄と技術の継承が祈願されています。この祭りは福井県の無形民俗文化財に指定され、1300年以上の歴史があります。このように、川上御前は歴史ある製紙業を支える神として、今もなお大切に信仰され続けています。
おわりに
越前は、長い歴史の中で製紙業が深く根付いた地であり、技術と信仰が交わる特別な場所です。大瀧神社や岡太神社が示すように、神と紙の関わりは単なる産業活動に留まらず、精神的な結びつきも持っています。
紙は、ただの素材ではなく、人々の生活や文化を支える重要な役割を果たしてきました。その精神を未来へと繋げるため、東京紙器に何ができるのか、デジタル化が叫ばれる今の時代だからこそ、改めて考えなければいけないと感じました。
これからも紙の魅力や可能性を追求し、お客様に満足いただける製品を提供し続けていきたいと思います。皆さん(特に業界の方)もぜひ、紙に触れる機会があれば、その奥深さと歴史に想いを馳せてみてください。
関連記事
参考サイト
美めぐり 「日本で唯一、紙の神様のいる 『岡太神社・大瀧神社』」
https://bimeguri.jp/spot/7862
越前和紙の里 「「五箇地区」と紙の祭り」
https://www.echizenwashi.jp/guide/festival/
福井県神社庁 「大瀧神社」
https://www.jinja-fukui.jp/detail/index.php?ID=20160815_152222
参考文献
※PDFが開きます
蔡倫社 著:堀洸 氏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jtappij/58/3/58_3_394/_pdf/-char/ja
御雇内国人による紙幣用紙技術導入 著:植村峻 氏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jtappij/63/6/63_6_710/_pdf/-char/ja
近世越前製紙業の生産と流通―U家文書を中心として― 著:楫西光速 氏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/19/1/19_KJ00002434585/_pdf/-char/ja
紙と印刷の出発(3) 著:太田節三 氏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jtappij1955/52/10/52_10_1428/_pdf/-char/en
福井県の和紙業 著:佐藤久志 氏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tga1948/7/1/7_1_36/_pdf/-char/en
大滝神社本殿及び拝殿の普請経過と設計変更時期について―大久保勘左衛門家史料の研究(三)― 著:国京克巳 氏
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/615186.pdf