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印刷業界黄金時代
斜陽産業と呼ばれて久しい印刷業界ですが、かつては輝いた時代がありました。
1950年代に機械の多様化高速化大型化が進んだことで、オフセット印刷が活版に比較し優位となり、
高度経済成長期と共に印刷業界も急拡大を続けました。
特に1970~1990年は、印刷物需要自体は経済規模と同レベルの拡大でしたが、
それ以上に多色化と小ロット化の進展により印刷業界出荷額はGDP以上に伸びていきます。
そしてバブル崩壊後の91年に出荷額はピークの約9兆円に達します。
その後、バブル崩壊とそれまでの供給力過剰が原因となり、価格下落、市場出荷額の縮小が始まります。
最終的に2000年以降のデジタル化による更なる印刷物需要の低下が追い打ちをかけ、
最新のデータである2018年には印刷業界出荷額がとうとう5兆円を割りました。
さて、そういう意味では30年近く右肩下がりの業界であるので、印刷業界のピーク時を知る人は
業界内でも数少なくなってきました。
当社の社長、山田俊也はその数少ない者の1人です。
今では考えられない印刷業界華やかなりし頃の貴重な話をご紹介したいと思います。
バブル期の仕事量
80年代後半から90年代初めにかけてのバブル期はほとんど全業界において好景気でした。
印刷業界においても例外ではなく、当時はインターネットもなく情報を得る手段が基本的には
紙またはテレビ・ラジオとなっていたため、情報出版系の印刷物の需要は
現在とは比較にならないほど多かったのです。
また、読者側からの反応を見るための手段もハガキや電話しかなく、その返信率は重要なものでした。
ハガキの切り取りミシンは、有ると無いとでは返信率にかなり差が出ていたようで、弊社のような印刷物の
打抜き産業にも大量の需要がありました。
当時の情報雑誌は週刊が普通かつ1回に数万部刷るというのもザラで、そのミシン入れをこなすために
月-土まで機械をフル回転しなければいけない状況でした。
そのような状況なので、抜型の手配も一刻を争います。
型屋さんに朝一で行き、その場で仕上がりを待って持って帰るということが当たり前にありました。
とにかく需要がいくらでもあったので、長い時間回せば回すほど売上があがっていました。
逆に仕事が多すぎるゆえ、仕事が無くなる心配はないものの、こなせるのかどうかという心配で
夜も眠れない日々が続いたそうです。
仕事は原則FAX、電話でのやり取りとなっており、携帯もメールもありませんから、移動中は当然連絡がつきません。
遠方のお客様に訪問する際は、着いたはいいものの担当者が打合せで数時間不在となり無駄足を踏むということも
多々あったそうです。
「お客さんの靴でも舐める」
バブル期は週刊誌が大量にでる時代だったので、製本会社の受注競争も大変なものでした。
製本会社は文字通り雑誌、書籍の製本工程を行う会社ですが、週刊誌などは廃刊や休刊するまでは
基本的にずっとその雑誌の仕事が来るため、1誌受注できれば莫大な利益を生むことになります。
そのため、出版社への接待も尋常ではなく、文字通り毎晩銀座や六本木で飲み歩き状態だったと言います。
1日に300万接待に使ったと自慢する者、30分で5万円取るバーを3軒ハシゴ、
支払の際は100万入った財布ごと渡す、といった信じられないようなことが実際に行われていました。
今でも忘れられない光景として「舐めろと言われれば、お客さんの靴でも舐める」と嘯いた人もいたそうです。
この規模の接待をしても受注さえできれば毎月億単位の金が入るため、製本会社も羽振り良く、
車はBMW、ベンツが当たり前、週末はクルーザーで豪遊というありさまでした。
この時に土地に手を出したりして後に破綻したり、飲みすぎで体を壊す人などもかなり多かったようです。
まさに「狂乱の時代」でした。