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NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺」の主人公 江戸のメディア王・蔦屋重三郎の素顔とは

江戸のメディア王・蔦屋重三郎の素顔とは

江戸時代の出版界で一大旋風を巻き起こし、江戸のメディア王として時代の寵児となった「蔦重」こと蔦屋重三郎。人気浮世絵師の喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎ら多くの才能を発掘し世に送り出した名プロデューサーであり、黄表紙や洒落本という文芸の分野でも数々のベストセラーを生み出して江戸の出版文化を主導した人物です。

蔦重は江戸文化が隆盛を極めた田沼時代に吉原で生まれ、貸本業から始めて、江戸の出版王にまで成り上がりながら、寛政の改革の出版統制令によって財産の半分を没収されます。しかし、そんな試練にもめげずに次々ヒットを飛ばし続けた蔦屋重三郎のべらぼうな生涯に迫ります。

京傳 作『箱入娘面屋人魚 3巻』に描かれた蔦屋重三郎、蔦唐丸、[寛政3 (1791)]
国立国会図書館デジタルコレクション httpsdl.ndl.go.jppid9892706
京傳 作『箱入娘面屋人魚 3巻』に描かれた蔦屋重三郎、蔦唐丸、[寛政3 (1791)]
国立国会図書館デジタルコレクション httpsdl.ndl.go.jppid9892706

吉原で生まれ育ち、貸本業で身を起こす


吉原遊郭は、江戸初期に現在の日本橋人形町付近で開業しましたが、明暦3(1657)年の「明暦の大火」の後に浅草の浅草寺裏手の日本堤に移転。移転前の吉原は「元吉原」、移転後の吉原は「新吉原」と呼ばれることもあります。

蔦屋重三郎は寛延3(1750)年1月7日、幕府公認の遊郭(新)吉原で、生まれました。父親は、尾張出身の丸山重助、母親は江戸の人で広瀬津与。本名は「丸山柯理(からまる)」といい、重三郎は通称です。

7歳のとき両親が離婚し、吉原で「蔦屋」の屋号で茶屋を営む喜多川家に養子に出されました。少年期の史料はなく謎に包まれていますが、吉原の人間関係に支えられながら商才を磨き、出版人としての第一歩を踏み出します。

安永2(1773)年、23歳のとき、吉原大門の近くで親戚が経営する引手茶屋(客を遊女のいる茶屋に案内する店)の軒先を借りて「耕書堂」という書店を開きました。

当時の江戸の出版事情をみると、享保の改革によって寺子屋が大幅に増えたことにより識字率が高くなり、庶民の間でも読書が盛んとなって本が大衆化しました。しかし、本はとても高価だったため貸本屋から借りて読むのが一般的でした。蔦重も貸本業を主な商いとしていて、店舗販売だけでなく吉原の遊郭や茶屋に営業活動を行っていました。

時代によって異なりますが、貸出料は新刊で約24文、旧刊は約6文が相場でした。これは本を購入した場合の10分の1以下の価格で、当時は蕎麦1杯が16文ほどだったので、庶民でも読書を楽しむことができたのです。

吉原のガイドブック『吉原細見』を販売


『吉原細見』、蔦屋重三郎、[寛政7 (1795)] 序
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2539846
『吉原細見』、蔦屋重三郎、[寛政7 (1795)] 序
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2539846

耕書堂は貸本業だけでなく、老舗の版元・鱗形屋から年に2回発行される『吉原細見』の編集・販売も始めました。

『吉原細見』は吉原遊郭の総合ガイドブックで、妓楼(遊女屋)ごとに遊女の名前や格付け、揚げ代(料金)などの情報を掲載し、吉原で遊ぶときには欠かせないアイテムで、江戸土産としても喜ばれたといいます。

吉原の遊女の数は少ない時期でも2000人を超えていたといわれるので、その情報を収集して本にするのは大変なことだったでしょう。

ところがこの頃、安く遊ぶことのできる岡場所という幕府非公認の遊里が流行ったため、吉原の客足が減ってきました。

そこで蔦重は、新たな客層の掘り起こしのための新プロジェクトを企画します。

一つは、『吉原細見』巻頭の序文の執筆を、売れっ子の戯作者・平賀源内に頼みました。人気者を起用して客を呼び戻そうという広告戦略です。

もう一つは、遊女を流行していた生け花に見立てた絵本仕立ての遊女評判記『一目千本』を新しく刊行しました。一流の浮世絵師が作画し、生け花の格式高いイメージを遊女に重ねることで、遊女を江戸文化の華として演出したのです。この本は馴染みの客のみに配布したことで評判となり、『一目千本』ほしさに客足が戻り始めたといいます。

版元となり幅広い出版事業に乗り出す


当時の江戸の本屋には、上方で出版された学問書や専門書などを扱うインテリ相手の書物屋と、江戸で出版された絵入りの娯楽小説(草双紙)・浮世絵・案内書などを扱う大衆相手の地本屋の2種類がありました。

『吉原細見』は鱗形屋孫兵衛が経営する地本屋「鶴鱗堂」がずっと出版を独占していました。『吉原細見』の小売をしていた蔦重にとって、孫兵衛は版元経営を学ぶ師匠であると同時にライバルでもありましたから、いつか自分も版元になることを夢見ていたのでしょう。

孫兵衛は安永4(1775)年、大人向け小説(黄表紙)として恋川春町の『金々先生栄花夢』を出版し、空前の大ヒット作となりました。

ところが、鱗形屋の手代が大坂の版元の出版物を無断で改題して売り出す事件が起こったのです。この事件が海賊版を禁止する法に触れて、孫兵衛は罰金刑を科せられ、鱗形屋は社会的信用を失って『吉原細見』の出版もできなくなりました。

商機をつかんだ蔦重は、隙を突いて『吉原細見』の版権を獲得し版元となったのです。そして自らの手で『吉原細見・籬(まがき)乃花』(籬は、遊女屋の入り口の格子戸のこと)を制作販売し、次々と新機軸を打ち出していきました。

例えば、吉原名物の広告を本に載せて広告媒体の機能を持たせるアイディアを実現。さらにレイアウトをわかりやすく改編し、小型本を中型本に変更することによってページ数を半減しました。それまでの鱗形屋版の紙の量が44枚(版木は22枚)だったのを、蔦屋版は20枚(版木は10枚)にして、紙代や版木代の経費削減に成功。本の価格をおさえて価格破壊をおこしたのです。

以後、蔦重は吉原をテーマにした本を次々に手がけて遊女たちをプロデュースし、安永5(1776)年には『青楼美人合姿鏡』という豪華な遊女絵の絵本を刊行。当世を代表する絵師である勝川春章・北尾重政の合作による多色刷りの絵本として、世間の注目を集めました。こうして蔦重は様々なジャンルの本を出版し、江戸を代表する版元としての地位を築いていきました。

〔北尾重政(1世)、勝川春章//画〕『青楼美人合姿鏡 春夏』、安永5(1776)序刊
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286934
〔北尾重政(1世)、勝川春章//画〕『青楼美人合姿鏡 春夏』、安永5(1776)序刊
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286934

次回へ続く…

あとがき


昭和までは多くあった「貸本屋」から立身出世した「蔦屋重三郎」という方はドラマのような波乱万丈の人生を送った人物で、今年の大河ドラマもとても興味深い作品になりそうです。江戸時代というのは紙の大衆化が進んだ時代で、製紙技術の発展、流通網の整備、識字率の向上などを背景に、江戸を中心に一般庶民まで幅広くさまざまな紙製品が行き渡っていました。

この時代に花開いた出版文化は、広告のあり方やその宣伝方法など現在の出版業に通ずるものが多々あるように思います。弊社も出版業界に携わる身として、とても勉強になります。

蔦屋重三郎の人生を巡る記事は、1月から3月まで毎月1回ずつ、合計で3回の連載になる予定です。次回の記事もお楽しみに!

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主な参考文献


・NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~<蔦屋重三郎とその時代>』NHK出版
TJMOOK『大河ドラマ べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』蔦屋重三郎とその時代』宝島社 監修:鈴木俊幸
・台東区公式チャンネル【台東区中高図書館郷土・調査室】企画展関連講演会「吉原の本屋 蔦屋重三郎」講演:鈴木俊之教授
・台東区公式チャンネル【2025放送 大河ドラマの主人公を先取り】講演会「若き日の蔦屋重三郎と吉原」

https://www.youtube.com/watch?v=wVozVHwPTmw&t=2330s

・台東区公式チャンネル【2025放送 大河ドラマの主人公を先取り】台東区発!江戸のメディア王「つたじゅうのいろは」
・和楽 3分で読める蔦屋重三郎「江戸のメディア王」は何をした人?
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